「わたしを覚えていらっしゃいますか。“まあちゃん”に助けて頂いた“ありさ”です。一人娘がこの春、当時の私と同じ小学三年生になりました。」

 仕事を終え帰宅すると、当時勤務していた警備会社名で封書が届いており、中には「回送します」とのメモと共に一通の手紙が同封されていた。懐かしさと共に、苦い思い出が鮮やかに蘇ってきた。

「そうか…あれからもう30年もたつのか…」

 高卒で某大手食品会社に就職した私は、度重なるパワハラに耐えかねて上司を殴り、約1年で退社。地元に開店したIYグループ系列のスーパーで、食品部門のバイトをしていた。やがて、ここでレジをしていた2歳上の彼女と出会い、22歳で結婚。だが自分は農家の長男でバイトの身、彼女は3姉妹の長女で体が弱いということもあり両家とも猛反対。修羅場の末の、いわば駆け落ち同然の入籍だった。だが、本当の修羅場がこれからやってくるとは…。

 2年後、業績不振でこのスーパーは撤退するが、当時マネージャーだった上司の紹介で大宮市の某警備会社に再就職。施設警備員として勤務の後、身辺警護部に配属された。基本的に警察は事件にならないと動けず、それをカバーするために新設された部署だった。そして担当した一つの案件(事件)が、私の人生にも大きな影響を及ぼすことになる。

 A氏は某市で部品の精密加工業を経営していて、妻と小学三年生の一人娘がいた。従業員は10人にも満たないが、創業者である父親から受け継いだその技術は世界からも注目されていた。人当たりは良いのだが、ギャンブル好きが高じ、会社の金に手を出してしまう。父親の逆鱗に触れて社長を解任されたA氏は事業を弟に譲り、家族3人でのアパート暮らしを始めた。

 取引先の伝手(つて)で仕事に就いたA氏だったが、それまでのプライドが邪魔してか、数日で辞めるという状況を繰り返した。生活は荒れる一方で、離婚を決意した妻は娘を連れて実家に戻った。承諾できないA氏はやがて妻の実家に押しかけ、「娘と一緒に死ぬ」などと口走るようになった。当時はストーカー規制法など影も形もない時代で、刃物でも振り回さぬ限り、駆け付けた警官はA氏をなだめるだけ。心配した妻の両親は、孫である“ありさ”ちゃんの警護を依頼してきた。

 警視庁OBをトップに5人でチームが編成。登下校はじめ、常に“ありさ”ちゃんに同伴する女性の私服警備員と、少し距離をおいてそれを警護する担当する者とに役割分担。後者はさらに、徒歩と車に…。徒歩だった私は“ありさ”ちゃんから、「まあちゃん!!」と呼ばれていた。

 何事もなく約一月が過ぎようとしていたある日、事態は急変した。A氏は買い物で外出した妻をレンタカーを使い誘拐すると、翌日未明、S山市の山林に停めた車の中で遺体で発見された。無理心中だった。一度に両親を、しかもこんな残酷な形で喪った“ありさ”ちゃんを思うと、「お母さんを守れなくてごめんね」という気持ちでいっぱいだった…。そして自分を責めた。

 当初はそんな私の仕事に理解を示してくれていた妻だったのだが、すれ違いの毎日に、募った不満を次第に爆発させるようになっていった。その後も同様の案件(警護依頼)が相次ぎ、帰宅はいつも0時過ぎ、警備本部での寝泊まりも当たり前という生活が続いた。疲労困憊で深夜に帰宅しても、妻の苛立った態度や声が神経に突き刺さった。そして私は自ら当直を志願するなど、次第に自宅から足が遠ざかるという悪循環に陥った。

 「実家に帰ります。」

 ある日の深夜に帰宅すると、テーブルの上には離婚届けと切手を貼った実家宛ての封筒が置いてあった。彼女の実家に電話しても取り次いでもらえず、当直の夜に警備会社にかかってきた「早く送ってください、離婚届…」という電話が、私が耳にした彼女の最後の声だった。

 離婚届を送付した数日後、彼女の死を知らせる警察からの電話に頭が真っ白になった。彼女は出て行く時に乗って行った私の車を運転、中央分離帯のコンクリートブロックに激突したという。体内からアルコールが検出されたというが、彼女は一滴も飲めなかったはず…。

 「人殺し!」

 通夜・告別式では彼女の両親らからありとあらゆる言葉で罵倒され、焼香を拒否された。礼服で土下座した私の背中を、革靴の底が何度も襲った。何も知らない弔問客はたぶん私を、交通事故の加害者と思っただろう。命日の墓参りも拒まれた。確かに私は人殺しなのかもしれない。彼女が精神的に追い詰められていることを感じながら、仕事を口実に逃げていたのだから…。

 それからというもの、いつも目にしていた日常が激変。町で見知らぬ人の立ち話を見ても、「あの人、自分の奥さんを殺したのよ」と言われているような気がした。とにかく、人と会うのが怖くて怖くてどうしようもなく、宗教もメンタルヘルス関係の本も役に立たなかった。「いっそ自分も…」との思いが頭をよぎった。

 幹部の慰留にも耳を貸さず警備会社を辞めた私を、周囲は「後を追うのでは…」と心配したらしい。嫁いでいた姉と母が父を説得、引っ越しに関わる手続き一切を代行してくれたうえ、廃人同様の私を実家に連れ戻してくれた。母は私が留守の間、父に内緒でアパートを訪ねては、きんぴらごぼうや煮物を作ったり、風邪などで寝込んだ妻の看病をしてくれていたという。元気だった頃の妻が、子供のように嬉しそうに話していた…。

 その母も他界し、この秋には七回忌を迎える。その年の春に届いた“ありさ”ちゃんからの手紙は、ただの偶然なのだろうか。脳梗塞から認知症になった母の介護は約12年にわたったが、母の恩に比べれば足元にも及ばない。睡眠導入剤と鎮痛剤なしには仕事もままならぬ体調も、妻の苦しみから比べれば些細なことなのかもしれない。いわば天罰だ。

 実質、あと2週間程で現在の仕事が終わるが、気がかりは同僚であるSさんの行く末…。助けを求める彼女の表情に、在りし日の妻の顔が重なる。私には何ができるのだろう。

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